人はハーフ(半分)になれないよ。タイとオーストラリアの間で生きる青年【メルボルン・オーストラリア】

2018年夏


 

‐ 彼の中には「白人」と「非 白人」の二つの部分が別々にあって、その二つは必ずしも 一つに融け合っているわけではないようだ。

 
‐ ブレイディ みかこ
 
 

マジョリティーに属する人達はマイノリティーに属する人たちが平等に扱われていない事実に気がつきにくい。民主主義において大衆が力であるように、力のある側にいる人は弱い立場の人がどのような経験をして、何を感じているか理解しづらい。先に紹介した本「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」でも多様なルーツをもつ人達の日常の複雑さが表れている。

 

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私自身は日本にしかルーツはないが、様々なルーツをもつ人達が苦い顔を見せる瞬間には何度も出くわした。
 
例えばこれはオーストラリアに住んでいた時のハウスメート、Kとの会話である。Kにはタイ人とオーストラリア人の親がいる。タイ育ちだが学校はインターナショナルスクールだったので、タイやアジアの文化に染まっているというよりは国際的な環境の中に慣れ親しんでいた。
 
そんなKと子供の頃の話をしていた時、彼は言う「オーストラリア人は結構差別的だよ。子供の頃サマーキャンプでオーストラリアに来たら、一緒に参加していたオーストラリア人の子供たちは僕のことをタイ人だと言ったんだ。僕もオーストラリア人なのにね。ハーフだとか何とか言って。実際そうなんだけどね。。。」。彼の力強い目元をはじめ顔には不快感が現れていた。インターナショナルスクールで育った彼にはアイデンティティーを他者に決められ、よそ者として扱われたのは衝撃的だったのかもしれない。子供心はこういうネガティブな記憶を忘れない。
 
それを聞いて私は言う「K、人は半分(ハーフ)になれないよ。体の部分部分にどこかの国籍をつけて分けたりできないのと同じようにね。あなたはオーストラリア人でもありタイ人でもあるよ。」。
 
それを聞いたKは下を向いたまま、うっすらと、でも少し力の抜けた温かい表情で「そうだよね」と言った。
 
こんなエピソードを聞くと、色んな風に思う人がいるだろう。子供は残酷だなとか、オーストラリアはそんな国なのか、そんなひどい話は聞いたことない、などと。もし、そんなふうに思うのだとしたら、それはあなたがマジョリティーに属しているから、または全然違う立場にいるからではないだろうか。
 
なぜならパターンは少しづつ違っても、近しいエピソードは日本でも海外でも遭遇してきたからだ。場所は自宅や友人宅、滞在先のホステルや職場でもあった。要は、どこにでもアイデンティティで苦しむ人はいる。それに気づくか気づかないかの問題だと思う。
 
しかし大抵の場合、言われた人(被害者)は言った側人達(加害者側の人たち、多くの場合マジョリティー)にはネガティブな情報をあえては口にしない。言った張本人でなくとも話しづらい相手には共有されにくいのだ。だから理解もされずらい。
 
他人の靴を履くこと、すなわち相手に共感する事は容易なことではない。だからこそ普段から周囲の人に目を配り相手の立場に立って話せているか我が身を振り返ることが大切だと思う。静かな不満がそこにないか確かめながら人と付き合うことで結局みんなにとって過ごしやすい時間を作れるのではなかろうか。
 

シドニーロード、メルボルン郊外、オーストラリア

 

 

 

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