この記事は一つの視点だということを十分に理解していただければ幸いです。
また、筆者とドイツ人(ドイツ語のネイティブスピーカー)の英語での会話をもとにしたものであり、筆者はドイツ語を話しません。
「集団的な思考」と「個人的な思考」が文化の中に根づき、日常使う言葉に影響与えているとしたら、それを意識してコミュニケーションをとれる人はどれほどいるでしょうか。
前回の記事で日本語的に無暗に「私たち」「日本人」等とくくることは時に危険であるとしました。
前回記事
では、私のドイツ人の友人達が納得させるにはどうしたらよかったでしょうか。
「私たち」「日本人」ではなく、
「日本にいる人々」 people in Japan
のように国籍や外見による違いではなく、日本に住んでいる人という言い方や、
単純に一般的な人々を表す you を使うことができます。マーク・ピーターセン氏の「続・日本人の英語」によると、自分の経験に基づいて一般論を推定する場合は主語をyou にすることが多いのだそうです。
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また、単純に一言、 obviously not all people (当然全ての人ではないですが)と付け加てもいいのです。
このように、個人的思考の強い人々や様々はバックグラウンドを持つ人々、国際的な思考の強い人々等との会話では無暗に人や物事をカテゴライズすることなく、一度自分の思考を俯瞰してそれが何を指すのかを明確にする必要がある場合があります。
ところが、一方でこういった経験もあります。
「日本の労働環境について」日本人と議論した時のことです。
前回の記事で書いたドイツでの経験の後だったこともあり、
「全ての人では無いけれども」「日本にいる人は」「多くの人は」
という表現を多用するようになっていました。
すると今度の一緒に話していた日本人の知人から
「なぜそのような言い方をするのか。」
と、疑問を投げかけられました。
彼に言わせれば、『マイノリティーについての議論ではないから、「日本人は」は「日本では」でよいだろう』とのことでした。
実は前回の記事で紹介したドイツでの出来事には続きがあります。
ドイツ人の友人達が私の国を代表するような物腰に疑問を投げかけた後、
ロシア人やジョージア人の友人達は「私(筆者)の表現の方が自然だ」といいだしたのです。
これは、彼らも集団的な思考が強いためだと考えられます。
こういった人々にとっては「自分の所属する社会に対して責任を持つ」ことは大切なことなのです。そのため「私たち」「日本人」という表現は話者である「私」が「日本人」なのだから「日本の代表者」であることは当然なのです。
たしかに、日本語で日本人である私が「日本にいる人は~」のような表現をすれば今度は『無責任』に聞こえてしまいますね。あたかも「他人事」であるような印象が拭えないのでしょう。
個人的な思考に基づいて話す方が良いか、それとも集団的な思考に基づいて良いかは時と場合によるのでしょう。
こういった違いを理解することも異文化理解の本質なのかもしれません。
たとえ相手が多少違和感のある表現をしていたとしても、それを理解する努力を積み重ねていきたいものです。